2011年4月19日火曜日

「4月革命51周年記念・関東地協青年学生集会」を開催しました

4月の若き獅子たち
神奈川県下、そして全国の在日同胞青年のみなさん、アンニョンハセヨ?

韓青神奈川ブログの管理人をしています、スミスです。

今日は4・19ですね。4・19といえば、私たち韓青の誕生の契機となった韓国の4月革命です。

日本では「革命」って言葉はなかなか馴染みがないので、はじめて4月革命を知ったときに「祖国は革命が起こったことがあるのか!なんかスゲーな!」と思ったものです。

ちなみに憲法の前文にもがっちり確認されているんですよね。
悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に即して正義、人道と同胞愛を基礎に民族の団結を強固にし...(Wikipediaより)
そこで、4月革命の51周年を契機として、その現代的な意義を共有し、これからの2011年の活動へと向かっていくべく、東京本部の仲間たちと4月17日に「4月革命51周年記念・関東地協青年学生集会」を開催しました。

東京に集った関東地協の仲間たちは、あらためて4月革命の意義を学び、その精神の継承者を自負する私たちがどのような社会を創造していくのか、どのように理想を実現させていくのかということを語り、具体的な実践を約束していきました。

神奈川でも、2011年度の運動が具体的に始っています。東日本においては、原発や地震の問題も引き続いていますが、4・19精神を継承して民主と平和統一、現代的にいくと6・15共同宣言の実践を頑張っていくぞと決意を新たにしました。

■4月革命とは 
1950年代、政権基盤の弱かった李承晩(イ・スンマン)大統領は、進歩的な人士を「北のスパイ」として処刑、数々の不正選挙や終身大統領制への憲法改悪を無理やり行うなど、分断体制を利用しながら独裁を強化しました。また戦争でボロボロになった経済は、アメリカの支援に頼っていましたがその援助が減少すると、たちまち立ち行かなくなります。60年の総失業率は34%にもなりました。 
国民の不満が高まる中、1960年3月の大統領選挙で、事前買収票が4割、投票箱のまるごとすり替えなどの不正選挙で、李承晩が「92%」の票を集めるという事態が起こりました。いよいよ民衆の不満が噴出しはじめます。 
慶尚南道の馬山では、投票所から野党の立会人が排除されたことをきっかけに、大規模な市民デモが発生、デモ隊に警察隊が発砲し8名の死者が出ました。そして4月11日、行方不明になっていた高校生の金朱烈(キム・チュヨル)君の死体が、目に催涙弾が打ち込まれた姿で馬山の海に浮かんでいるところを発見されると、一気にデモは拡大し、政権打倒を目指すものとして、全国各地へ発展していったのです。
「生きられない。変えよう!」 
1960年4月19日、ソウルではほとんどの大学から学生が立ち上がり、そこに市民や高校生も加わって大規模市民デモ起こります。そして民衆が大統領官邸に向おうとすると警察が発砲!こうして4月19日は「血の火曜日」となったのです。 
しかし民衆の勢いは衰えず、25日には大学教授陣もデモに参加、そして翌26日、追い込まれた李承晩はついに辞任を発表。4・19から李承晩退陣までに倒れた犠牲者は200人近く。多くの血を流しながら、民衆は独裁を打倒したのです。 
独裁から解き放たれた韓国社会では議論が活発化して統一運動も高揚し、1961年5月には南北学生会談が南側から提案されるなど、統一を求める民衆のマグマのようなエネルギーが噴出しました。4月革命は韓国の民主化闘争の原点であり、統一運動を生み出した原点でもあるです。 
しかし、米国の後押しを背景に5・16軍事クーデターで登場した朴正煕(パク・チョンヒ)軍事独裁政権は、4月革命の成果を軍靴で踏みにじりました。民主主義は蹂躙され、反共の旗のもとに統一運動も封殺されてしまったのです。そうして、4月革命は「未完の革命」といわれるようになります。 
しかし、4月革命の正義の闘いと勝利は在日同胞にも大きな希望を与え、「統一運動の烽火」を継承する私たち韓青が誕生し、4月革命精神を継承・発展させてきました。

(韓青Wikipediaより抜粋)

民主主義

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