2011年5月9日月曜日

東北に炊き出しに行ってきました

負けんでねっど!炊き出し隊
神奈川県下、そして全国の在日同胞青年のみなさん、アンニョンハセヨ?

韓青神奈川ブログの管理人をしています、スミスです。

以前に告知していた通り、5月7日(土)に宮城県の避難所を訪問して、炊き出しを行ってきました。神奈川からも車を出して、有志のメンバーで参加してきましたので、今回はその報告をさせてもらいます。

今回訪問したのは、宮城県亘理郡山元町の山元町立山下中学校。福島よりの場所に位置し、今回の炊き出しをコーディネートしてくれた仙台在住のS先輩の出身地でした。

今回はもともと女川に行く予定でした。女川は元従軍慰安婦の宋神道ハルモニが住んでいた町で、かねてからS先輩が支援活動などでよく訪れていたという経緯があり、今回もぜひそこにという話だったのです。ちなみに宋神道ハルモニはご自宅は津波の被害にあわれましたが、ご自身は無事で、現在は別の場所に避難していらっしゃいます。

しかし、女川は被災地として有名になってしまったために、ゴールデンウィークということもあり、多くのボランティアの方が入っていて大変混雑しているという情報があったので、今回はもうひとつS先輩が縁のある場所として、山元町に行くことになりました。

 * * *

ということで5月6日の夜、神奈川県本部に集合して、カセットコンロや鍋、キッチンペーパーなどを準備した私たちは、全体集合のために秋葉原へ。今回の炊き出しに参加する他地域のメンバーと合流して、結団式をもった後、それぞれの車に乗り込んで一路北へ。

神奈川号
神奈川の車には、韓青神奈川のツートップと三重から原チャリで参加したチェビョ(厳密には三重まで原チャリで帰る)、多くの学生の支援を携えて大阪からやってきた学生協関西のカンチ、そして民族時報社記者兼韓統連東京の東大院生SYHさんという濃すぎるメンバー。

車が走り出しても後部座席に座った初対面のチェビョ、カンチ、SYHさんが全く会話してなくて、運転しながら大丈夫だろうかと心配になりましたが、そのうち仲良くなるだろうと放置。でも心配もなにも、次の日が本番でもあるし、夜の車移動=運転手を気遣うふりしていかに寝るかが勝負だったようです。

東北道は渋滞することもなくスムーズにいきました。ただ、福島県を走っている時は、やはりピリッとした緊張感をもちました。こういうのが風評被害とかにつながっていくものなのかもしれないと思いながら、でも緊張してしまう自分。SAの店員さんがマスクしているだけで、いろんな想像をしてしまう。思っている以上に染み込んでいるものがあるんだと実感しました。

そして仙台・宮城料金所に無事到着し、今回の炊き出しをコーディネートしてくださったS先輩ご夫妻と合流。仙台駅で群馬、そして北海道!からこられた先輩方、そして実家のある仙台に戻って復興のために汗を流している韓青東京のダニーとも合流しました。

仙台市内の主要部分は、一見普通のようです。思った以上に普通の生活があり、初めて行きましたが綺麗な街でした。しかし、ちょいちょいビルにネットがかけられています。どうやら壁やタイルなどが落ちてしまうのでかけてあるようです。

仙台市内のビル
また、自衛隊車両も結構走っています。被災地に向かっていく道は、特に多かったです。意識するまでもなく震災の爪あとは、いたるところで見られました。


自衛隊車両
炊き出しの場所である山元町立山下中学校に向かう前に、津波で直接的に被害を受けた沿岸地域も、車中からですが直接見ることができました。ゆりあげ地区、そして福島に入って沿岸地域をみてきました。

車窓に飛び込んできた荒廃した景色
津波で被った海水が残る
道の路肩にうちあげられた船
うち捨てられている半壊した車
何もなくなってしまった街の風景
積み上げられた瓦礫

絶句です。

ひしゃげたガードレール、打ち捨てられた半壊の車、道路脇にうちあげられている船、破壊された家屋、そして津波で流されてしまって何もなくなってガランとした寂しく、恐ろしい街の風景。福島、宮城、岩手まで何百kmとこの光景は続いているという現実が、はじめて実感として、恐怖として襲ってきました。

車内には、カメラのシャッターを切る音だけ。その時僕たちにできたことは、とにかくこの事実を焼き付けようということ。もちろんそれは「記録」という意味合いでもあるのですが、それよりも自分自身に「記憶」として焼き付けようという意識だったと思います。

* * *

そうこうして、今回の目的地、炊き出しを行なう山下中学校に到着しました。思った以上に綺麗な中学校でしたが、ここには約300人の方が避難生活を送っているとのことで、敷地内にテントも多かったです。

避難所に到着
避難所内にテントも
早速テントを建てて、準備を開始しました。トックの調理、キムチやコーヒーなども準備しました。民主女性会の先輩方の指導の下、みんなで美味しいトック作りに真剣です。

テントを建てて炊き出し準備開始
トックの調理中
コーヒーや柚子茶も
実は、スミスをはじめとした運転手4人は、夜行での往復の先発完投を目指していたために、現地ではひたすらに休息をとらせていただきました。

本気の爆睡(笑)
ともあれ、炊き出しには避難所のたくさんの方が来ていただいて、みなさん口々に「美味しいわぁ」「いつもと違うものだから嬉しい」との声をいただけました。特にキムチはニオイもあるので同かなと思っていましたが、とても好評でこちらがビックリするくらいでした。

たくさんの方が召し上がってくれました
トックだけでなくキムチも人気
そして、今回は炊き出しだけでなく、韓国/朝鮮の伝統楽器の演奏も披露してきました。避難所生活ではなかなか娯楽が少ないということも聞いていたので、韓青の十八番であるサムルノリをやってきました。

鯉のぼりバックでキルノリ
体育館でサムルノリ
練習の時間もとれなかったので、演奏の出来に関しては・・・まぁまぁといったところでしたが、現地の中学生をはじめとして、避難所の方々が楽しんでくれたのが何よりでした。

また、直接お話を聞いたり、交流する時間ももてたことは、とても貴重な体験になりました。

明るい中学生
ただ、明るい交流の中にも、ご家族や友人、知人がいまも行方が分らないといった会話があり、あらためて今回の被害が深い傷を生々しく残っていることを感じさせられました。

そうこうしているうちに長めのランチタイムも終わり、日も少し傾きかけてきた頃に炊き出しは約300食を出し切って無事終了しました。

みんなで「負けんでねっど~!」
最後にみんなで記念写真を撮りました。シャッターの掛け声はもちろん、「負けんでねっど~!」

* * *

しっかりと後片付けをした後は、避難所を後にして一路仙台市内へ。ここで、ボランティア隊の疲れを癒すためにとS先輩が温泉を準備してくれていました。逆に申し訳ないと恐縮しつつ、さっぱり汗を流して一休み。

風呂は命の洗濯です
さらに、温泉で疲れを癒した後には、仙台名物の牛タン定食で打ち上げ!なんだか本当に申し訳ないなぁと思いつつ、がんばった後のご飯は最高の味でした。

牛タン定食うまし!
もちろん食べるだけでなく、それぞれの感想やこれからの自分の行動、決意についても、この打ち上げで語り、約束しました。「忘れちゃいけない」ということから、それぞれの行動につなげていこうという思いを、全員が確認したと思います。

そして、ここで最後に語られたS先輩のお話がとても印象的だったので、意訳になりますが引用しておきます。
もちろん物理的な被害もそうなのですが、被災したすべての人は、つらさを胸に抱えています。けれど、横にいる人も同じように被災した人であり、つらさを抱えているので、胸の内を語ることが出来ません。語ることの出来ないつらい思いは、澱(おり)の様に積もってしまいます。みなさん、一日でも数時間でもいいので、被災地を訪れてください。そして彼らの話を聞いてあげてください。自分には出来ることがないと思わないでください。語ることで救われることもあるのです。一人でも、週末だけの少ない時間でも、来たいと思う方は自分に連絡をくれれば、コーディネートします。よろしくお願いします。
語ることですべてが晴れるわけではない。けれど、語ることで積もり凝り固まってしまう悲しみを和らげることは出来る。誰にでも語るべき時が必要ですよね。在日同胞として、「身世打鈴」が身に染みる僕らとしては、なおさらそう感じてしまいました。

打ち上げを終え、車にみんなが乗り込み、一路南へ。神奈川号は日付が変わった頃には渋谷を経由して、横浜に無事に戻りました。総移動距離は850キロ、事故が無くて何よりでした。

 * * *

今回の炊き出しは、
  1. 対策委員会に寄せられた義援金を有効に活用して、会員および同胞、日本人被災者を炊き出しで慰労し、激励を直接送る。
  2. 炊き出し活動で被災現地に行くことで被災者の痛みをともにし、原発災害の克服にむけた各自の責任意識を高め、今後の活動の糧とする。
という趣旨で行いましたが、目的を立派に果たして帰還したと評価できると思います。

そして、被災から2か月という時間の経過も実感させられました。瓦礫は片付いていると言うには程遠いにしても、徐々に整理されつつあるそうです。また、避難所から生活の糧をもとめて、仕事に行かれている方々もいらっしゃるそうで、思った以上に、避難所にいる方が少なかったのも事実です。人が生きていくということの現実的な重さを知らされました。

炊き出しにこられた方は、高齢の方や子どもたち、山下中学の生徒、避難所のスタッフのかたなどでした。いわゆる働き盛りの男性の数は少なかったように思います。しかし、避難所で生活されているということは、つまり、地震と津波で家をなくされた方がたで、肉親をなくした方なのです。トックを渡すときに交わす短い言葉に、被災という現実の重さがひしひしと伝わってきました。

参加者にはそれぞれに、いろんな宿題を与えられたと思います。韓青神奈川としても継続して出来ることを行なっていきたいと思います。

東北 身世打鈴

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